独り言

大田区のネグレクト事件で生命の重さを考える

東京都大田区で24歳のシングルマザーが3歳の娘を8日間

自宅に閉じ込めて死亡させたというニュースがありました。

その8日間に女性は鹿児島まで男性に会いに行っていたとの情報も添えられて。

 

テレビやネットではこぞって

「母親(人)としてありえない」

「子どもとはいえ、一つのいのち」

「母親も同じ目にあうべきだ」

「男に狂った」

「行政にできることはなかったのか」

「欲しくても子どもができない人もいるのに」

などのコメントが見受けられます。

 

また、一部で容疑者の女性自身も母親から虐待をされていた

との報道もあります。

 

子殺しは珍しいことではない

ニュースは報道する価値のある(と報道機関が勝手に考える)ものとして

今回のネグレクト事件を報じ

それに素直に反応して「許されない事件だな」などと

われわれは思うわけですが

そのような「情報を消費するだけ」の姿勢はそろそろやめにしたいと思います。

実際に事件発覚から一週間も経って誰もこの事件の話はしていません。

 

シングルマザーが新たな男のために子どもを殺す

ということ自体は昔からよくある話です。

よくある話だから、今回の事件も大したことはない

というのではありません。

 

社会には常に一定数、理解しがたい人がいる、というだけの話です。

 

理解しがたい人たちが現代の我々の身近にもいるということは

この本を読めばよくわかります。

石井光太『「鬼畜」の家―わが子を殺す親たち―』新潮文庫

《使用済みのオムツが悪臭を放ち、床には虫が湧く。暗く寒い部屋に監禁され食事は与えられず、それでもなお親の愛を信じていた5歳の男児は、一人息絶え、ミイラ化した。極めて身勝手な理由でわが子を手にかける親たち。彼らは一様に口を揃える。「愛していたけど、殺した」。ただし「私なりに」。親の生育歴を遡ることで見えてきた真実とは。家庭という密室で殺される子供たちを追う衝撃のルポ。》

 

大田区の容疑者もおそらく

「私なりに子どもを愛していた」し

「死ぬとは思わなかった」

のだと思います。

本気で、死ぬとは思わなかった

のだと思います。

毎年、車のなかで熱中症で死ぬ子どもがいるのも

「死ぬとは思わなかった」のでしょう。

 

そのように考える人に対して

「母親(人)としてありえない」

「母親も同じ目にあうべきだ」

「男に狂った」

「行政にできることはなかったのか」

という言葉を発することにどれだけの意味があるというのでしょう。

「自分はまともな人間だ」という優越感に浸る以外の意味が。

 

女性受刑者の出所後の情報は少ない

現在日本では約20,000人の受刑者がおり

約5,000人の女性が服役しています。

大田区の女性もいずれ服役し、そして出所することでしょう。

 

刑務所、女性刑務所の内情が書かれた本や

男性の出所後の苦難についての情報はわりとあります。

しかし、女性の出所後についての情報は極めて少ないとは思いませんか。

普通はそういうことを調べませんか。

 

それなりに齢を重ねた女性が、出所後に就職したり

経済力のある人間に養ってもらえたりということは難しいでしょう。

出所後の女性に再起のチャンスはあるのでしょうか。

 

子を殺した女性をただこき下ろすよりも

女性の出所後に思いをはせることの方がいくらか有益な気がします。

 

教育によって人は変わるか

「人権」意識の高まりから

日本の刑務所は懲罰よりも矯正・更生に主眼が置かれています。

この思想の裏には

「人間は教育によって変わることができる」という考えがあることは明白です。

 

基本的にわたしは反対ですが

教育によって変わることができる人もいれば、変わることができない人もいる

という当たり前の事実は認めたいと思います。

 

私は一人だけ女性の元受刑者の知り合いがいます。

会社勤めをした後に、現在は自分で起業して会社経営をしています。

勤めていた会社を辞める時に社長が

「どこにも行けないお前を拾ってやったのに裏切りやがって」と言うのを

私も聞きました。

 

大学を出たらしいその社長は教育によって何を学んだのでしょうか。

 

一部露出説と全部露出説

学生時代に民法の講義で最初に教えてもらったのが

人はいつから権利の主体となるか、つまり人権を持つかという点について

一部露出説と全部露出説があるということでした。

 

たとえば父親が事故で死んで相続が発生する状況で

赤ちゃんが母体から少しでも出ていたら相続の権利が発生するのか

全部出ていないと発生しないのか

という話です。

 

当時のわたしは「学者というのは変わったことを考える人だ」と思った記憶があります。

 

ちなみに

相続などの民法的には全部露出説がとられ

刑法的には一部露出説(一部でも露出したら外から危害が加えられる可能性がある)

が採用されるという、ひねくれた法解釈がされています。

 

超私見を申せば

赤ちゃんが頭を出し始めてからへその緒が切られるまでの短時間で

被相続人候補が死ぬというケースが多いはずがありません。

 

著しく特殊なケースを想定して

民法的には全部露出、刑法的には一部露出とかを

真面目に支持するわけにはいかない気がします。

 

中絶は許せて、子殺しは許せない?

「子どもとはいえ、一つのいのち」

の言葉に賛同しない人はいないでしょう。

 

しかし、人口中絶は平成29年度で164,621人という事実もあります。

昨今話題のコロナの被害と比べて、、、むにゃむにゃむにゃ。

とにかくニュースにもなり得ない頻度だとお伝えしておきます。

 

もし仮に「子供とはいえ、一つのいのち」と発言する人が

「中絶は許されるが、子どもを殺すのは許せない」と考えているとすれば

一部も出ていなければ胎児、一部でも出てきたら人間として扱う

という刑法的な考えを採用していると言えるでしょう

 

つまり「生きて出てきた、命のみが大切」と。

そうすると「母親も同じ目にあうべきだ(死刑肯定と同じ)」というのは

「生きて出てきた、命のみが大切」論と矛盾してきます。

子を死なせた瞬間に、母親の命もなくなるべきだとすると

 

大田区の女性の人権は

自分が胎児の時(死んでやむなし)→出生・成長(いのち大事)→子殺し(死んでやむなし)

という変遷を辿ることになります。

 

わたしは死刑肯定派なので

現に生きている命は何がなんでも社会全体で保護すべきとは考えません。

万死に値する罪というものはあるからです。

しかし、一部露出したかどうかで生命に軽重をつける考えもしっくりきません。

 

レイプという犯罪がある以上

女性から中絶という選択肢を完全に奪うことはできません。

 

生きている命を大切に、という考えは維持するとして

中絶と死刑についての態度をOKまたはNGとする組み合わせは下記の4つがあります。

中絶NGは「限定されたケース以外は罰則がある」くらいのものとします。

 

「中絶OK、死刑OK」

現代日本です。

「中絶OK、死刑NG」

罪なき胎児よりも犯罪者を守る点で、バランスを欠き受け入れがたいものがありますね。

「中絶NG、死刑NG」

超人権保護国家ですね。肉親が殺されたらと考えると受け入れられません。

「中絶NG、死刑OK」

私はこの立場なのかもしれません。

 

親殺しと尊属殺重罰規定

追加でもう一つ

1973年に最高裁が違憲判決を出すまで温存されていた

日本の刑法第200条の尊属殺を知っておきましょう。

直系の親や祖父母といった人を殺すと「死刑または無期懲役」のどちらかになる

という年配者を敬う儒教的な規定がありました。

 

普通殺人(変な言葉です)が

当時「死刑又は無期若しくは3年(今は5年)以上の懲役」だったのに比べて

殺した相手が親だと問答無用で「死刑または無期懲役」でした。

 

尊属殺重罰規定違憲判決の経緯は

wiki 尊属殺重罰規定違憲判決

をご覧ください。

 

違憲判決がでた元となる事件は

実父が娘をレイプし、子どもまで産ませて夫婦同然の暮らしをし

娘に恋人ができたと知るや実父が激怒、娘を監禁、レイプをしたため

娘が実父を絞殺したというものです。

 

こんな父親は死んでいいと心底思うわけですが

人権擁護派の人は、娘の罪を重視するのでしょうか。

「いかに父親がクソでも殺してはいけない」にしても

その罪が「死刑または無期懲役」しか選択肢がないのは

普通殺人と比べて合理性がないのではないか?という議論の末に

尊属殺重罰規定が違憲とされ

娘は最終的に懲役2年6月、執行猶予3年の刑を言い渡されました。

 

情状を酌量した結果、殺人であっても執行猶予がつきうるという

この量刑が妥当なのかどうかは分かりません。

 

正当防衛や緊急避難といった違法性が阻却する事情でもない限り

親であれ子であれ他人であれ

殺人には死刑または(冤罪の可能性を考慮しても)終身刑

以外にないのではないかとも思うからです。

 

以上、中途半端な独り言です。すみません。

答えは出ないまま、まだまだ多くの問題を考えていかなければいけませんね。

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