日本の裁判は真実を究明する場所ではない
と言ったら、君たちは驚くでしょうか。
まだ10代だった父が最初に
日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』新潮社
を読んだときの衝撃は今もって忘れられません。
きっと、むこう50年経っても
たいして日本の司法制度は変革されないでしょうから
君たちも下記の3冊くらいは必ず読んでおくように。
日垣隆『裁判官に気をつけろ!』角川書店
門田隆将『裁判官が日本を滅ぼす』新潮文庫
裁判は真実を究明する場所ではなく、判決の出る場所だと考えてください。
日本は一応、法治国家ということになっています。
法治国家であるということは、今ある法律の条文の規定のなかでしか判決を出せない
ということになります。
世の中にある犯罪の種類や動機はキテレツなまでに複雑怪奇です。
それでも、法律の条文は明治以降、そんなに変わっていません。
裁判で行われていることは、個別の事情の精査や被害者の人権保護ではなく
事件を構成する要件の確認と、そこから導き出される量刑の適用です。
難しいかもしれないけれど
要するに、上記のことはコンピューターに任せても一緒で
裁判官がやる意味は本当はないとだけ覚えておいてください。
裁判官も人間で、官僚組織の一員であるため
・抱えている案件数が多すぎて、1件1件感情移入などしていられない
・出世はしたい
・出世をするためには、のちのち上級裁判所に否定される判決は書きたくない
・過去の上級裁判所の判決例を踏襲せざるを得ない
・退官後も、大企業の顧問弁護士として、天下りしたい
・元の上司が顧問弁護士をしている企業の訴訟案件では、腰が引ける
等の理由から必然的に
裁判官の個人的で独自の正義感に満ちた判決など出さないし
大企業や行政機関に寄った判決が出がちです。
裁判官とはそういうものだから、そうでない裁判官を描いた
『家栽の人』や『イチケイのカラス』などが作品として面白いのですね。
そして、この傾向はおそらく100年経っても、戦争などがない限りは変わらないでしょう。
なぜなら
われわれ国民のなかで、司法改革の必要性を切実に感じているのは超少数派だからです。
父も全然切実ではありません。
訴えられたり、裁判に出廷したり、刑法について考えたことがない、犯罪被害者でもない
という人間が多数派であるということは、幸せなことです。
父はニヒリストなのかもしれません。
「別になんにも変わりゃしないよ」と思っているところはあります。
それに、世界や周りを変えようとするのは生意気なことだと思っているし
その前に自分が変われよ
自分なら変えられる
その結果として、世界が少しはよくなるのかも
とは信じています。
君たちも、世界を変えようとか、なんで変わらないんだとイラついたりせず
粛々と、昨日までやらなかった新しいことに今日、チャレンジできる人になってください。
父も、下手は下手なりに画像をいじってみたり挑戦していますよ。